わたし、一ノ瀬琴子はWebマーケティングの支援会社で働く28歳のOLだ。いたって、ごく普通の。そう、いたってごく普通のOLだったのだ——ほんの1ヶ月前までは。
1ヶ月ほど前の冬のある日。担当しているクライアントの大規模なプロモーションが始まることとなり、わたしの業務はまさに繁忙期を迎えていた。残業し、朦朧としながら夕食を食べ、なんとかシャワーを浴びてベッドに倒れ込む日々。ようやく一区切りつくゴールが見えた……という安堵感から、前日までよりも軽い足取りで帰路についたわたしの目の前が突然暗転した。
何が起きたのかはよくわからない。連日の疲れのせいなのか、薄れゆく意識の中(あっ、わたし今気絶してる)なんてことを考えていた。
そして、どれだけ意識を手放していたのか、目を開くと、そこには全く記憶にない部屋の天井があったのだった。
(ここ……どこ……)
病院かとも思ったが、白い壁と天井でもないしカーテンでもないし、病室特有の素っ気ない空気も感じない。キャンプで泊まるログハウス(泊まったことはない)のような、なんとなく温かみのある部屋だった。指を動かしてみると、動く。しばらく気絶していたからか頭に重さを感じるものの、体は動きそうだった。ゆっくりと手をついて、上体を起こす。服は着ていたが、倒れたときに着ていたはずの会社帰りの服ではなく、木綿のワンピースタイプの寝巻きのような服を着ていた。
部屋には誰もいなかった。暖炉があって火が灯っているが、部屋の気温はちょうどいい。窓とドアが1つずつある。
普通の寝室に見えるが、家電製品は何もない。テレビもパソコンもないし暖房器具は暖炉で照明も電球や蛍光灯の類ではなかった。
窓から見える外の景色は明るく、どうやら時刻は昼らしいことがわかった。この家の庭なのか、森のような自然味溢れる景色が目に映る。木の幹は白っぽく、あまりこれまでの日常生活で馴染みのない木だった。北海道や北欧のような寒い地域の写真で目にするシラカバのようにも見える。
(一体わたしはこんな場所にどうしているんだろう)
わけのわからない状況に不安で胸がいっぱいになる。海外にでも売り飛ばされたのだろうか——それにしては綺麗な部屋で、五体満足で、拘束もなにもされていないけれど、どれだけ見ても部屋にも景色にも全く心当たりがないのだ。
そのとき、部屋の外からコツコツと足音がした。ビクッと体が震える。状況からみてもこの部屋に連れてきた人間はわたしにとって悪い人間ではないような気はする。けれど、それでも緊張感がわたしを包んだ。
コンコン、と扉からノック音がした。「はい、どうぞ」と言葉にしたはずの声は掠れて震えて、部屋の外に聞こえたかはわからなかった。
ゆっくり開いた扉の外には、女の子が立っていた。15歳くらいだろうか。日本人離れした顔立ちで、赤毛のおさげ髪が可愛らしい。起き上がっているわたしを見て、パァッと明るい笑顔になった。
「目が覚めたのね!」彼女は言った。鈴が鳴ったような可愛らしい声だった。害意はないだろう、と思った。
「近くの森で倒れていたのよ。」
「……ありがとう……ございます……。」
お礼の言葉を絞り出して、声が出しにくいのは緊張感からだけではなく喉がカラカラに乾いているせいだと気が付いた。
「3日間も寝ていたのよ、これ、お水飲んで!」
彼女がベッドサイドのテーブルにあった水差しからコップに水を注いでくれる。ゆっくり飲むと、喉が回復するような感覚になる。
「ありがとうございます。」
少女はにっこりと笑った。
「わたしはアンナ。アンナって呼んで! 3日前に薪を拾っていたらあなたを森で見つけて……一体どうしてあんなところにいたの?」
「一ノ瀬琴子といいます。助けていただいてありがとうございました。実は、こんな森のある場所に来た記憶が全くなくて……」
アンナと名乗った少女が目を見開いた。「ひょっとして記憶が全然ないの……?」と心配そうにわたしの目を覗き込む。
「名前や住んでいた場所は覚えているんですけど……住んでいたところはここの外みたいな森なんてないんです。ここは一体どこなんですか……?」
「バーチフィールドという町の外れよ。わかる? エルミア公国の。」
まったく聞き覚えのないカタカナの地名に首を傾げた。エルミア公国? 聞いたことのない国名だ。モナコ公国以外に公国ってあったっけ!? そもそもどうして、アンナの話す言葉がすんなり理解できているしわたしの話す言葉も通じているのだろう。
「あなたもしかして……」アンナがわたしの手を握った。「渡り人ね!」
感激したような様子のアンナが発した言葉は、聞き覚えがない。
「渡り人……?」
アンナは一瞬ハッとしてから、少しだけバツが悪そうな表情になった。ベッドの端に座って、上体だけをこちらに向ける。
「コトコさん、あなたのいたところって、大きな人口の鳥が人をたくさん乗せて空を飛んだり、四角い箱の中で動く人を世界中から見られるところでしょう?」
前者は飛行機、後者は……テレビのことだろうか。自分の鼓動が早まるのを感じた。この子は——アンナは飛行機もテレビも見たことがないのだ。
「あなたにとって、ショックなことだと思うんだけど……ここはあなたがいた世界じゃないの。」
あなたがいた世界じゃない、という言葉が頭の中で何度も反芻された。
「渡り人っていってね、たまにこっちの世界に来てしまう人がいて、そういう人が話した元いた世界の話が語り継がれていて……。」
なんてことだろう。ここはわたしが生きてきた日本でなく、ましてや地球のあった世界ですらないらしい。……いわゆる、異世界転生っていうやつだろう。
「元の世界に戻る方法は……?」
この手の創作の定番では、戻るには命懸けの大冒険が必要か、そもそも戻る方法が確立されていない、戻らないような作品がほとんどだ。それに、アンナが事実を伝えようとしたときの表情。きっとそうだろうとはわかっていても、聞かずにはいられなかった。
アンナの反応は、わたしの予想通りだった。眉を八の字にして、首を左右に振ったのを見て、わたしはため息をついた。万が一、戻る必要がある、と言われなくてよかったかもしれない。いくら戻れるからって命懸けの大冒険を乗り切るような気力も体力もなかっただろう。
これからどうすればいいのだろう。
「コトコさん、まだ混乱もしているだろうけど、良かったらしばらくはここで住まない?」
「……いいんですか?」
アンナは少なくともいい人だろうし、この世界のことを何も知らない状況でお金も持っていない今、味方になってくれるような人がいてくれるのはありがたい。
「衣食住には困らないわ! 兄と2人で暮らしているんだけど、それでもよければ。」
わたしは頷いた。
「嬉しい! ずーっとお兄ちゃんと二人きりだったから、姉妹ができるみたい!」
ニコニコ笑うアンナはとても可愛らしい。
「姉妹なんて……そんな若くないわ。」15歳くらいの女の子から、「姉妹」扱いを受け照れ臭い気持ちになる。
「コトコ……って呼んでもいいかしら、コトコ、18歳くらいでしょう? わたしと少ししか変わらないじゃない!」
変わらない? 15歳くらいの女の子と?
「ちょっと待って!」わたしはベッドから慌てて立ち上がる。扉の横に鏡がかかっていたので、大きく3歩、歩いたというより走ったような勢いで鏡を覗き込んだ。
「どうしたのよ、コトコ!?」
「若い……」
「え?」
「若返ってる!!!!!」
鏡を見ると、連日の残業で疲れたアラサーOLの顔ではなく、少し幼い学生時代くらいのわたしがいた。そのままわたしの記憶通りの顔でもなく、少しこの世界の顔に合わせたかのような、顔立ちになっている気がする。(化粧で盛ったようにも思えるが、メイクをしている感覚はないのでおそらくすっぴんだろう。)
「わたし、元の世界では28歳なのよ。でも今の顔は……多分18歳くらいの頃の顔だと思う。」
「……聞いたことがある、渡り人がこの世界に移るときに年齢が変わってしまうことがあるって。きっとそれね。」
なるほど……。異世界への移動なら時空が歪んでもおかしくないし、そういう影響だろう。せめて意識はこのままに赤ちゃんになったり、年だけとったりしなくて良かった。なにごとも楽に、とはいかないだろうが18歳くらいなら自分次第でこの新しい人生もきっといいものにできる——と、安堵したそのとき、お腹がぐーっと大きな音を立てた。
「そうだ、何もたべてなかったのよね。ついてきて、中途半端な時間だけど少し何か出してあげる!」
アンナが笑いながら扉を開いた。
見知らぬ世界、若返った体。不安は大きいけれど、ここから新しい人生が始まるんだなと思いながら、わたしはアンナの後を追った。
(続く……?)
この作品の構想を始めたのは、去年の秋頃だったと思う。わたし一人で設定をねりねりする自信もなかったので、上司に「一緒に考えましょうよ(微笑)」と言いながら結局一人で書きました。この作品を執筆するために、異世界転生もののストーリーを小説・漫画合わせて10作品は読みました。あと全然異世界ものじゃないこれ系の小説・漫画もやたらと読みました。読んだのは本当ですが、「この作品のため」は普通に嘘です。
ChatGPTやNotionAIに書かせてみよう!とも思いましたが、あんまり良い出力が叶わなかったため完全にわたしが書いています。
そうだ、小説家にNろう。
この記事を書いた人
2016年入社。ASUE株式会社広報を担当。メールマガジン「ほぼ週刊ASUE通信」もお送りしています。ほぼ週刊なので週刊ではない。月初に公開するWebマーケティング情報をまとめたツキイチシリーズはちゃんと月刊です。
趣味はミュージカル観劇。おすすめ作品を知りたい方はN村のTwitterまでお問い合わせください。
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